2025年10月
北欧研究所 石本千智
高齢化社会が進展する中、多くの人々が体力の衰えに不安を感じ、日常の「移動」に制限を抱えるようになっています。しかし、「移動」は単なる手段的な行為ではありません。自らの意思でどこかへ行けることは、「自由」の象徴であり、自分らしい人生を営むための土台でもあります。誰かと並んで道を行き、風を感じ、景色を共有する——こうした一見ささやかな体験こそ、人間の根本的な喜びではないでしょうか。
そんな移動する自由を再び高齢者に届けるべく、2012年にデンマークでは「風を感じる権利(The right to wind in your hair)」 を合言葉に、高齢者に自転車の喜びを提供する「サイクリング・ウィズアウト・エイジ(年齢を問わないサイクリング)」という活動が始まりました。高齢者にもう一度、自転車で風を感じてもらう——このユニークな取り組みは、デンマークから始まり、今や世界中に広がり、社会的孤立を和らげ、心豊かな老後を支える国際的なモデルとして注目を集めています。今回は「サイクリング・ウィズアウト・エイジ」の活動について、ご紹介します。
「サイクリング・ウィズアウト・エイジ」の活動は、2012年、デンマークの社会起業家、オーレ・カッソウさん(Ole Kassow)によって立ち上がりました。ある日、通勤途中に通りかかった老人ホームの前で、ただ座って外を眺めている高齢男性にふと目がとまりました。「この人が、もう一度自転車に乗れたら、どんなに楽しいだろう」——そんな思いから、三輪自転車(トライショー)での無料送迎を始めたのが、すべての始まりです。オーレさんが最初にトライショーで送迎したのは、高齢の女性とその介護者でした。彼女が昔から知っている場所へと連れていったことで、彼女は当時の話を語り、再び思い出のある場所を見ることができて嬉しかったと語ったそうです。この自転車サービスは大きな反響を呼んだため、オーレさんはデンマークの市議会に資金援助を要請したところ、5台のトライショーが提供されたのです。
このようにして始まった「サイクリング・ウィズアウト・エイジ」は、現在(2025年1月時点)で、世界41か国に広がり、3,500以上の拠点で活動しています。6,000台以上のトライショーが稼働し、43,000人以上のボランティアが運転を担い、これまでに延べ500万回を超える乗車を記録しています。
「サイクリング・ウィズアウト・エイジ」の活動には、単なる自転車送迎支援にとどまらず、人々の尊厳、交流、都市や自然との繋がりを考えた、深い5つの原則があります。「寛大さ(Generosity)」「スロウネス、ゆっくり(Slowness)」「ストーリーテリング(Storytelling)」「関係性(Relationships)」そして「年齢を超える(Without Age)」の5原則を掲げ、ボランティアと高齢者の間に信頼関係を築き、単なる「サービスの提供者と受け手」という関係を超えたつながりを生み出すための価値観を支え、ボランティア主導の草の根活動を支えています。
「サイクリング・ウィズアウト・エイジ」の活動については、様々な高評価が調査によって発表されてきました。2020年にスコットランドの高齢者施設で実施された調査では、「サイクリング・ウィズアウト・エイジ」によるサイクリング実施日は、実施しない日と比較して、高齢者の気分と幸福度が有意に改善されたと報告されています。また、デンマーク南部大学と国立公衆衛生研究所の共同研究では、「孤独感の軽減」「日常の単調さからの解放」「自己との再接続」が、施設利用者の実感として語られており、精神的にもウェルビーイングの向上に繋がる可能性が示されました 。さらに、オーストラリアの介護施設でのインタビュー調査でも、「馴染みの場所を再訪できた」「地域とのつながりを感じられる貴重な機会だった」として、高齢者やその家族にも評価が高く、外界との接触、物語の共有、コミュニティとのつながりが、高齢者の日常の単調さを打ち破る重要な要素として「サイクリング・ウィズアウト・エイジ」の活動が評価されました。
「風を感じる権利」というこの活動のスローガンには、実に多くの意味が込められています。年を重ねて、体が思うように動かなくなっても、「もう一度、あの道を通ってみたい」「かつての我が家を見に行きたい」といった願いに答える手段として、「サイクリング・ウィズアウト・エイジ」の活動は、まさに高齢者の心の旅をサポートする大きな役割を担っています。
加齢によって「できなくなること」が増えていく中で、この活動は「まだできること、感じれること」に光を当てています。そして、高齢者の皆さんだけでなく、ボランティアの皆さんにとっても「人生の豊かさ」「人とのつながりの大切さ」に気づかせてくれるような活動です。
福祉国家デンマークで生まれたこの社会的イノベーションは、今や世界中の人々に豊かな時間を感じる機会を届けています。人々のふとしたひらめきから始まり、助け合いを通じて幸福度の高い社会を築いていく――こんな世界は、素敵だと思いませんか。
参考資料
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