北欧研究所 臼杵真
デンマークは、世界でも最もデジタル化が進んだ国の一つとされています。行政手続き、医療情報、銀行サービス、公共機関からの連絡など、日常生活に関わる多くのサービスがオンライン化されており、MitIDやe-Boks、borger.dkといったデジタル基盤が、市民生活を支える重要なインフラとなっています。2024年の国連のデジタル政府ランキングではデンマークが世界1位に位置づけられるなど、公共サービスの効率化や利便性の向上という点で高い評価を受けています。
しかし、社会全体のデジタル化が進むほど、その仕組みに適応することが難しい人々が取り残される危険性も高まります。特に高齢者にとって、スマートフォンやパソコンの操作、電子認証、オンライン上の通知確認などは大きな負担となり得ます。公共サービスが原則としてデジタルで提供される社会では、デジタル技術を使いこなせないことが、行政手続き、医療、金融、社会参加へのアクセスを妨げる要因となります。実際に2021年のデンマーク政府の調査では、成人人口の約17〜22%がデジタル面で困難を抱えていると推定されています。デンマークの高齢者が幸せに、そして安心して暮らし続けるためには、単に社会をデジタル化するだけでなく、彼らがその変化に取り残されないような仕組みが必要不可欠です。
高齢者のデジタル支援を行う取り組みの一つに、Civic Agency in Public E-service innovation (以下CAPE) という研究プロジェクトがあります。CAPEは、コペンハーゲンIT大学、オールボー大学、バレロップ図書館、マルメ大学、マルメ市立図書館、アールト大学、ヘルシンキ市立図書館による共同プロジェクトで、デジタル面で困難を抱える市民の経験を収集・分析し、より使いやすい公共デジタルサービスの設計につなげることを目的としています。CAPEの特徴は、図書館を市民参加の場として位置づけている点にあります。公共図書館は、誰でも利用できる開かれた公共空間であり、特にデジタル技術に不安を抱える人々がIT支援を求めて訪れる場所でもあります。そのためCAPEでは、図書館にCivic Innovation Centre (CIC) と呼ばれる拠点を設け、市民、ITボランティア、公共デジタルサービスの開発者が対話する場をつくろうとしています。
バレロップ図書館のIT-Stuen(ITデスク)は、その具体的な実践例です。IT-Stuenでは、主に高齢者を対象とした、ボランティアによる対面型IT支援が提供されています。利用者は、パソコンやスマートフォン、タブレットの操作に関する相談だけでなく、MitIDやe-Boksなど、生活に直結するデジタルサービスについて支援を受けることができます。特に2021年のMitIDへの移行は、アプリの設定、本人確認、パスワード管理など、複数の操作が必要となるため、多くの高齢者にとって大きな負担となったとされています。IT-Stuenを特集した記事では、81歳の女性がMitIDを使うために新しい携帯電話を購入したものの、操作に困り、何度もIT-Stuenを訪れていた事例が紹介されています。彼女は、e-Boksを1か月半もの間確認できなかったと述べており、デジタル技術への不適応が行政や医療など重要な情報へのアクセスを妨げる可能性を示しています。
IT-Stuenの意義は、単に技術的な問題を解決することだけではありません。ボランティアは、利用者がどの操作でつまずくのか、どのような説明が理解されにくいのか、どの制度変更が不安を生むのかを現場で直接見ています。そのため、彼らの知見はデジタルサービス改善に向けた重要な手がかりとなります。IT支援の現場で得られたこれらの知見は、行政やシステム設計者へと共有され、サービスの改善に役立てられるとともに、新しいITシステムを設計する際に、市民の負担をこれ以上増やさないための「カタログ」として利用されます。つまり、このプロジェクトは、高齢者などのデジタル弱者を、単に支援される対象として見るのではなく、より良いデジタル公共サービスを設計するための重要な知見を持つ参加者として位置づけているのです。
バレロップ図書館のIT-Stuenの事例は、デジタル先進国であるデンマークにおいても、高齢者を取り残さないための対面支援が不可欠であることを示しています。図書館のような身近な公共空間で、無料かつ対面で相談できる仕組みは大きな意味を持ちます。IT-Stuenは支援が必要な高齢者とITサービス提供者の「橋渡し」の役割を担い、誰も取り残さないデジタル社会の実現に向けて取り組んでいます。
1.MitID:デンマークの電子本人確認システム。行政手続きや銀行サービスなどへのログインに用いられる。
2.e-Boks:行政機関や企業からの通知・書類をオンラインで受け取るデジタル郵便サービス。
(https://bib.ballerup.dk/ballerup-bibliotek)
(https://bib.ballerup.dk/artikler/dit-digitale-liv/it-stuen-deltager-i-forskningsprojektet-cape)
United Nations. “UN E-Government Knowledgebase: Data Center.”
https://publicadministration.un.org/egovkb/en-us/data-center
(閲覧日:2026年5月4日)
Digitaliseringsstyrelsen og KL. Digital inklusion i det digitaliserede samfund. 2021.
https://digst.dk/media/hfbf2scd/digital-inklusion-i-det-digitaliserede-samfund.pdf
(閲覧日:2026年5月4日)
Ballerup Bibliotekerne. “IT-Stuen i Posthuset.”
https://bib.ballerup.dk/aktiviteter/hverdagshjaelp/it-stuen-i-posthuset
(閲覧日:2026年5月4日)
IT-Universitetet i København. “Forskningsprojekt giver vigtig viden om digital udsathed.” 2022年11月7日.https://www.itu.dk/Om-ITU/Presse/Nyheder/2022/CAPE-digital-udsathed
(閲覧日:2026年5月4日)
NordForsk. “Libraries can help to increase public participation in digital welfare solutions.” 2022年11月28日.https://www.nordforsk.org/news/libraries-can-help-increase-public-participation-digital-welfare-solutions
(閲覧日:2026年5月4日)